自然の恵み村ホーム > 凍頂烏龍茶 > 茶葉研究家・清水和正さんインタビュー

 
 

“凍頂烏龍茶”の自然の恵み村での販売にあたり、みなさんに“凍頂烏龍茶”にかかわる人たちをもっと知っていただこうと、自然の恵み村に“凍頂烏龍茶”を紹介してくださった茶葉研究家の清水和正さんに取材を申し込みました。急なお願いだったにもかかわらず、終始にこやかに丁寧にお話していただきました。

さて今回は、このインタビューでお話いただいた「無農薬栽培に対する気持ち」「烏龍茶との出会い」を中心に、無農薬で「凍頂烏龍茶」を栽培するにいたるまでの清水さんの半生をご紹介したいと思います。

 
   

「えっ、これが烏龍茶?」
目の前に差し出された一杯の茶碗を見て、考えるより先に思わずこう聞いていた。
「ええ、そうですよ」
平然と、さも当たり前のように主人は答える。しかし、そこにあるのは日本で見知っている烏龍茶ではなかった。なによりまず、色が違う。日本の常識での烏龍茶はまるでほうじ茶のようなこげ茶色をしているのだ。半信半疑ながら手に取り、上げた茶碗が口に届く前に止まる。思わず一言、
「香りがええ」
思わずつぶやき、そして再び聞いた。
「これ、烏龍茶ですか?」
「ええ、そうですよ」
店主は先ほどと同じ答えを返してくる。しかし、日本でお茶を扱っている仕事柄、多少は中国茶に関しても知っているつもりだが、あまりにも自分が知っている烏龍茶と違いすぎる。色、そして香りまでもが自分が知っている烏龍茶をはるかに超える、上質のお茶であることを物語っているのだ。そう考え、ひとくち含む。また、聞いた。
「これ、烏龍茶ですよね?」
「ええ、そうですよ」
日本から来た客人の奇妙とも取れる質問に、主人は同じ返事を返し続ける。これが茶葉研究家・清水和正さんと台湾烏龍茶との出会いだった。

 
 
 
   

清水和正さんは昭和25年、大阪のお茶屋の3人兄弟の長男として生まれた。小さいころから料理が好きだったが、丁稚奉公からたたき上げで職人になった父は、清水さんが調理場に入ることを許さなかった。代わりに、子は親の仕事を手伝いをして仕事を覚えながら大きくなっていくものだと言って、仕事場の掃除を命じられた。
「いずれは跡を継がなければならない、でもいやだった」
父の期待と長男としての義務から、跡を継がなければならないとは思いながらも、清水さんは次第にお茶を嫌うようになっていく。思春期から青年期にかけて悩みはつづいた。そして大学4年生のとき、
「跡を継ぐなら修行に出してくれ!!」
「だめだ! よそに行っても楽をするだけで成長なんぞ見込めん。わしの元で修行しろ」
堂々巡りだった。家業を継ぐのであれば、若いうちに他を見ておきたい。しかしそれさえも許されない。悩んだ末、親に黙って友人と東京のホテルに就職試験を受けに行った。結果は一週間後に連絡するとの言葉を受け帰阪、日常に戻り配達などの手伝いをしていたある日、家に帰ると空気がおかしい。母親に尋ねると合格通知が届いたという。両親も、清水さんが家を出ることまで考えているとは思わなかったらしく、このような形の意思表示に戸惑っていた。

再度家族会議が行われ、清水さんの本気のほどを感じた父は修行に出ることを認めた。永くかみ合わなかった親子の主張が、軟着陸した瞬間だった。こうしてついに、清水さんは自分の意思と力でお茶の世界へと飛び出していくことになる。

 
 
 
   

昭和52年の春、すでに修行を終え大阪の実家で働いていた清水さんは、取引先の農家を訪ねて九州をおとずれた。そこで無農薬栽培のお茶があると聞きつけ、すぐに畑を訪ねた。しかし、そこでは少量のお茶を無農薬で栽培しているだけで、とても流通に載せられる量ではなかった。そのときふと隣の畑に目をやると、モンペをはき、着物を何枚も重ねて身につけ、首にはタオル、手には厚いゴム手袋で完全装備をした老婆が農薬を散布しているのが目に飛び込んできたのだ。そのいでたちは、とても食べ物を扱う姿には見えず、まるで毒を散布しているようにさえ見えた。
「おれ、えらいもん売ってる!! こんなもんをお客さんに出してええんか?」
急激に足元が揺らいだ気がした。 自分が販売している商品に対する信頼が一気に失われてしまったのだ。
「おれ、こんなことやっててええのか?」
これからの清水さんのお茶人生のすべての元となる、無農薬栽培のお茶さがしが始まった。しかし、時代は高度成長期。まだ、誰も無農薬栽培などに興味を示さなかった時期である。いや、それどころか「そんな苦労して、生産量減らすなんて頭がおかしいのではないか」とさえいわれる状況だった。

日本中の茶農を飛び回り頭を下げても誰も理解してくれない。やはり無農薬栽培は出来ないのか。そんな思いになりかけた時、清水さんはある話を耳にした。九州の中央町に無農薬のお茶を作っている農家があるというのだ。

 
 
 
   

やっと見つけた無農薬栽培を行っている茶農に聞いた。
「なぜ無農薬栽培をやってるんですか?」
その茶農は医者に農薬を使うことをとめられたと言う。体を悪くし医者にかかったところ、 「農薬散布が原因でしょう。農薬をやめないと体が治ることはないと思われます」と言われ、もとより農薬に疑問を感じていた茶農は、すぐに農薬の使用を取りやめたのだと言う。徐々に高度成長期の歪みが現れ始めていたのである。

こうして、1人目の無農薬栽培農家と契約をした清水さんは、徐々に無農薬に理解のある茶農を増やしていく。そして順調に行くかと思われたそのとき、1つの問題が発生したのだ。
「売れない。ぜんぜん売れない。」
値段が高く、見た目は下手をすると農薬を利用したお茶より劣る、無農薬栽培のお茶などに誰も見向きもしなかったのだ。当時、清水さんが持っていたお客さんは大手企業や市役所など、大量生産大量消費の象徴のようなところばかり。無農薬栽培に関心を持とうとさえしなかった。

無農薬栽培に同調してくれる茶農が増える一方、消費者は無関心な状態が続く。当然、倉庫は在庫でいっぱいになった。手詰まり感を覚えた清水さんは社長自ら飛び込みで販売に出かけた。
「無農薬栽培のよさを伝えたい」
その思いが通じたのか、ついに灘神戸生協で販売を開始することになった。ついに安心してお客さんに商品の販売が出来る。不安感がとんだ。崩れ去った足元が戻ってきた実感がわいた。
やっと、無農薬栽培茶はスタート地点にたったのだ。

 
 
 
   

昭和54年、29歳の正月に清水和正さんは、友人が台湾の網族の酋長の娘と結婚したのをきっかけに台湾に行くことになり、そこで出迎えてのが台湾のお茶屋さん。ホテルまで迎えに来てくれ、また市内を案内してもらった。最後にそのお茶屋さんのお店に行き出されたのが冒頭の烏龍茶だった。出された烏龍茶の色を見て、
「えっ、これが烏龍茶?」
「ええ、そうですよ」
口元に近づけて、香りをかぎ、
「これ、烏龍茶ですか?」
「ええ、そうですよ」
一口含んで、
「これ、烏龍茶ですよね?」
「ええ、そうですよ」
と三度質問した。色、香、味のどれをとっても清水さんの知っている烏龍茶ではなかった。烏龍茶を飲み干して茶碗を戻すと、今度は香りをかげという。さっきもかいだが、他に何かあるのかと思いついでくれるのを待つが、入れてくれる気配はない。すると、空の茶碗をかげという。日本には空っぽの茶碗をかぐ習慣などない。狐につままれた思いで、茶碗をかぐと甘い香りがした。

しかし言葉では言い表せない。知っている日本語にはその香りを表現する言葉がなかったのだ。強いて言うなら“甘涼しい”という言葉が近い気もするが、少し違う。ミルクのような、花の香りのような、、、夢中で香りをかぐうちに、知らず知らず烏龍茶のとりこになっていった。

 
 
 
   

烏龍茶との出会いのあと、日本に帰った清水さんは仕事やプライベートで忙しく、再度の台湾への訪問を想いながらも実現できずにいた。そして、あっという間に一年が過ぎ、念願の訪台の時が来た。台湾に渡り、まず昨年のお茶屋へと出向き、一年間の間にたまっていた質問をあらいざらいぶつけた。最初の疑問は、
「日本の烏龍茶とぜんぜん違うんやけど、なんでかわかりますか?」
だった。日本で販売されている烏龍茶は、あまりにも台湾の烏龍茶とかけ離れていた。その理由が知りたかったのだ。「ああ、あれは烏龍ほうじ茶なんですよ。烏龍茶の下級品で、お茶が渋いから焙煎して訪茶みたいに焦がしてるんです。だからあんな味と色になるんです。だいたい、台湾人は飲みません。」その答えを聞いたときの気持ちを思い出しながら清水さんはこう語った。

「あれで、初めて合点がいきましたね。ああそうか、そういうことか。自分は本当の烏龍茶をしらんかったんやなぁ、ってね。その時までは、台湾の烏龍茶が偽物なんじゃないかとさえおもってましたからね(笑)」

その後、烏龍茶の香りに取り付かれた清水さんは台湾通いを始める。一年に3度、4度と訪台を繰り返し、ついにはお茶さんが質問に窮するまでになっていた。

 
 
 
   

台湾通いを続けるうちに、清水さんのお茶に対する知識は深まり、町のお茶屋さんでは質問に答えることが出来ないまでになっていた。そして、あるとき車に乗せられどこかに連れて行かれた。どこに行くとも告げず、郊外に出た車は南北縦貫道路(国道一号線)を走っていく。
「着きましたよ。中華民国台湾省茶業改良場(当時)です」
車を降りて階段を上っていくと、上りきってすぐ右の部屋に案内された。表札には「秘書室」とある。秘書とは場長につぐナンバー2で、実質的に改良場を指揮する立場にあり、10等職といい最高クラスの官僚のポストである。

そこで、引き合わされたのが“徐英祥”さん。清水さんが一生の師と仰ぐ人物との出会いだった。一言、二言、言葉を交わすうちに徐さんのお茶に対する造詣と情熱に圧倒され始めた。

「ああ、こんな人について学べるのは本当に幸せだ」

それからというもの、清水さんはどこに行くのも徐さんと一緒だった。お茶の産地を見学に行くときも、車の中ではずっとお茶の話だった。お酒を飲んでもお茶の話。起きて朝ごはんを食べるときもお茶の話。寝ているとき以外は常にお茶の話をしていた。いつか、清水さんは徐さんの家に呼ばれて家族と一緒に食事をする間柄にまでなっていた。一生のお茶の師は、いつしか家族のように接してくれるようになっていた。


 
 
 
   

実は清水さんは徐さんと会う前から、台湾でも無農薬茶を探し始めていた。そして、自ら台湾で作り上げたネットワークから探し出したのが香檳(シャンピン)烏龍茶。しかし、この烏龍茶は生産方法が特殊で少量しか生産が上がらず値段も高いため、販売量が少なく知名度の低さに困っていた。

そこで、徐さんに無農薬栽培を受けてくれる台湾の茶農を紹介してくれるように頼んだところ、手を上げてくれたのが凍頂山の“李金洲”さんだった。この李さんもまた、三度の飯よりお茶が好きという人だった。当然、先の二人もお茶に人生を掛けてきた人物、会わないはずがなかった。

こうして、清水和正さん、徐英祥さん、李金洲さんの三人がつながり、『無農薬栽培の凍頂烏龍茶』ができたのである。清水さんの無農薬茶に対する思い、徐さんの台湾トップクラスの知識とネットワーク、李さんの無農薬栽培に取り組もうとする情熱。これらが合わさって出来た『無農薬栽培の凍頂烏龍茶』ぜひ一度お試しください。

 

 
 
 
 

無農薬栽培「凍頂烏龍茶」台湾南投県産
商品番号:71801
価格:1,575円
内容量:80g
原材料:青心烏龍茶(台湾南投県鹿谷郷凍頂山産)
賞味期限:製造より12か月

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